第二十一話 越前の沈黙 前編
犬を飼ってから、「人も動物も結局同じなんだな」と様々な場面で思う。
越前は5匹兄妹の長男として生まれた。ブリーダーさんの手元にいる間は、『長男くん』と呼ばれていたらしい。我が家に来てからも、年長さんとして育てられ、「お兄さんなんだから」という理由で忍耐を強いられてきた。
こうやって育てられた子供は、あまり自己主張をしない我慢強い性格になるようである。ただし我慢の限界を超えると突拍子もないことをしたり、手がつけられなくなったりする。また、何かちょっとしたきっかけで気持ちが爆発することも多いようだ。私は越前のこうした性格がよく理解できる。私も長男として、そう育てられたからだ。
そういう訳で、越前は無口だ。ほとんど声を出すことがない。ぶ〜ぶ〜と鼻も鳴らさない。確かにおとなしくていい子なのだが、それはそれで問題があるのだ・・・。
「よーしっ!思う存分走れっ!」
ある日、千葉の成田山までドライブに行った時のことである。たまたま見つけた公園が、思った以上に広かった。人も多いのだが敷地はそれ以上に広く、犬を遊ばせるのに丁度良い小さな窪地があちこちにある。誰もいないので自由に遊ばせることにした。
<ドドドドドーッ>
リードを離した瞬間、越前が爆発した。全力で走り出す。孟徳と玄徳が、少し遅れてそれを追う。窪地の反対側には背の高い草が生い茂っており、越前達の姿はあっというまにその中に消えた。
「家の近くにもこんな公園があったらいいのにね。あんなに喜んでる。」
「ほんとだね。リード無しで犬を遊ばせるのが、飼い主の夢だよな。」
というような会話をしていると、
<テッテケ、テッテケ>
孟徳・玄徳が帰ってきた。
「越前はどうした?」
声をかけても、
『ぶ〜、ぶ〜、ぶ〜』
<ゴロン、ゴロン、ゴロン>
2匹とも、芝生に背中を擦り付けて遊び出した。何事もなかったかのように・・・。
「えちぜ〜んっ!」
呼ぶと、
<ガサ、ガサ、ガサ>
草が揺れるだけで、一向に戻ってくる気配がない。
「何かあったのかも。」
草が揺れる場所を目当てに、妻と探しに行ったところ・・・、
「お前、何してんだ?こんなとこで!」
一面草地と思っていたその窪地の向こうは、葦の穂が生茂った沼だったのである。沼の土手に越前が、必死の形相でしがみついていた。
喜び勇んで駆け出した越前は、草の中に飛込んだ途端・・・、沼に落ちた。越前は這い上がろうとしたが、土手が高すぎた。登るに登れず、かえるみたいにへばりつくしかなかったようだ。後から追いかけてきた孟徳と玄徳は、寸でのところで落下から免れ、おろおろしていたに違いない。しかし、自分達ではどうしようもないと判断すると・・・、忘れることにしたようだ。
「あんた達!なんで悠長にゴロゴロしてんの!越前が大変なことになってるじゃない!」
妻が孟徳と玄徳を叱り付けた。
「・・・どうして越前は、ワンとかキャンとか鳴かないのかな?もうちょっとで溺れたかもしれないのに。」
帰りの車の中で、妻が不思議そうに聞いてきた。
「俺には越前の気持ちがわかる!!きっと怒られるのが怖かったんだ。俺も、小学校1年生の時・・・、」
小学校1年の時、私は車に轢き逃げされた。夕方5時の門限も忘れて遊んでいた私は、母に叱られるのが怖くて走って帰っていた。もう、ただただ母が怖くて、ひたすら突っ走っていたら、
ドーンッ!
体が宙に浮き、5メートルほど先の田んぼの中に吹っ飛ばされた。軽自動車に轢かれたのである。訳がわからず、泥だらけで立ち上がると靴が脱げていた。衝撃で両方とも吹っ飛んだのである。片一方はすぐ先に落ちていたが、もう一つは見当たらなかった。その時、
「きゃ〜〜!」
とか、
「ぎゃ〜〜!!」
とか、おばさんたちが絶叫しだした。よりにもよって、スーパーの真ん前で事故に遭ったのだ。ちょうど、夕飯の材料を買う時間だった。
「○○ちゃ〜ん!大丈夫っ!!」
両手で顔を覆いながら、何人かが私の名を叫んだ。友達の母親だ。
(うわ〜、お母さんに告げ口される。また叱られる。)
その時、
「ボク!大丈夫かっ!!」
車から運転手の男が血相を変えて降りてきた。その顔を見て私は、
(うわ〜、このおじさんも怒ってる。)
と思った瞬間・・・、
ダダダダーッ
裸足で逃げた。片っぽの靴だけ握って・・・。
(家に帰っても、きっとおばさんたちが告げ口に来る。)
と考えた私は、家の近くの垣根の中に隠れ、玄関の様子を伺うことにした。案の定、おばさんたちがやってきたのだが、思いもよらない人数だった。ご近所中の奥様方が大騒ぎでやってきたのである。
「えーっ、まだ帰ってきてないの!どこかで倒れてるんじゃないの!」
とか、
「死んでもおかしくない事故だったわよ」
とかいう声が聞こえ、
「あの子はどこ」
半狂乱の母を見ると、
(これじゃあ、帰れないよ〜っ。おばさん達が帰るまで待とう。)
子供の浅知恵である。当然のことながら事態はどんどん悪化した。会社から帰宅し、話しを聞いたご主人達や友達まで集まってきたのである。
(どうしよう?どんどん人が増えてくよ〜っ。)
子供ながらに状況を理解した私は・・・、恐怖のあまりわんわん泣きながら家に帰った。とりあえず、無傷であることを確認された上でその騒ぎは収まった。
私を轢いた運転手は、私が走って逃げたのを見て、そのまま車に乗って去って行ったそうである。面白いことに、その車のナンバープレートを覚えているおばさんは一人もいなかった。結局その車が見つかることはなく、轢き逃げ事件としてご近所や学校で騒がれ、事故があった場所に信号が立った。
「というようにだな、長男というのはその特質上、辛いときでもグッと我慢するもんなんだ。わかる?」
「全然わからない。すっごく迷惑。その運転手だってかわいそうよ。轢き逃げじゃないじゃない。轢かれ逃げでしょ。越前にしたって、事故にならなかったから良かったけど、もし怪我でもしてたら困るじゃない。何かあった時に声を出さないって心配。」
妻のこの心配は当たった。
[後編に続く]
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