第二十五話 
犬の教え


犬は、私たちに何をしてくれるのだろう?

 

「ねえねえ、もしさ、私たちが熊に襲われたら、越前たちは助けてくれるのかな?」

熊の焼肉を食べている最中、妻が聞いてきた。烏骨鶏ラーメンの町を出た後、私たちは磐梯山の麓のペンションに泊まった。ペンションの近くにあった居酒屋に入ると、『熊肉入荷しました』のメニューに目が釘付けになり、さっそく焼肉を注文したのだ。

「無理だな。」

馬鹿な質問をする。それより、熊肉だ。
熊肉は、思った通り硬かったが、思ったほど臭くはなかった。悪くない。

「そうかな?越前ぐらいは頑張ってくれるんじゃない?」

妻は、この話題を変える気は無いようだ。

「じゃあ、言おう。仮に越前が助けに入ったとしても、熊に一撃でやられるだろう。
それを見たあなたは、越前にすがりつく。そこを熊が襲い、俺が助けに入る。
・・・で、全滅。   俺としては、上手く逃げてくれる方がありがたい。」

「・・・・。じゃあ、なんで犬を飼ってるのよ。」

「じゃあ、あんたは、熊と闘うために犬を飼ったのか?」

「・・・・」

「・・・・」


この年の旅行は、磐梯山周辺のペンション巡りであった。最後に泊まったペンションは、裏磐梯の桧原湖の湖畔にあった。

「ごめんなさいね。この時期に、こんなに雪が降るなんて初めてなんですよ。」

ペンションの奥さんが申し訳なさそうに言った。まだ10月なのに、大雪が降ったのだ。一晩降り続いた雪は、翌朝には積った。

「いえいえ。フレンチブルドッグは暑さに弱いから、寒いほうがありがたいんです。」

「そうですか。そう言って頂けると・・・。でもね、実は私、ここに住んでて一番好きな季節は冬なんですよ。2月頃になると・・・」

一年で最も寒くなる2月頃になると、周りの山々は雪に覆われる。桧原湖は凍てつき、広大なドッグランと化す。そして、その一面真っ白な世界に、ダイヤモンドダストが舞うらしい。キラキラと光輝く世界の中を・・・

「ノーリードで走らせてあげたら、喜ぶだろうなあ。越前達。」

「是非来てください。待っていますから。」

 

「やっぱ、エンヤだろ、エンヤ!雪にはエンヤッ!」

10月の旅行から帰った私たちは、すぐに2月のスケジュールを調整し、ペンションに予約の電話を入れた。それからは、次の旅行のことばかり考えていた。雪国用の装備を買い、ドライブ中に聞く音楽を準備した。白銀の世界で聞くエンヤは、きっと素晴らしいことだろう・・・

「と思ったんだけど。ちょっとまずいな・・・、エンヤ。」

「私はいいけど。あなたには辛いでしょ。」

白銀の桧原湖の湖畔を走りながら聞くエンヤは、やはり素晴らしかった。あまりにも素晴らしく・・・、

「眠たい・・・。」
「絶対寝ないでよっ!運転中なんだからっ!!」

なんとかペンションに着くと、オーナーご夫妻が前回と同じ笑顔で迎えてくれた。

このペンションの食事はとても美味しい。夕食は洋風、朝食は和風なのであるが、ともに贅沢で量がたっぷりしている。二日目の朝の食事は、蟹の味噌汁に焼き魚、小鉢料理数品であった。普段朝食を摂らない私も、ついつい食べ過ぎてしまった。


「あの山、登っても大丈夫でしょうか?」
朝食後、ペンションの裏手にある山を見上げながらオーナーさんに聞いた。

「うん。危なくはないけど・・・。でも、低いように見えて、かなりしんどいですよ。」
「ちょっと腹ごなしに、行ける所まで行ってみます。」

 

「ねえ、本当にテッペンまで登るの?」
「登る!」

オーナーさんにかんじきを借りたのだが、それでも軽く太腿まで雪に埋まるのだ。登り始めた早々、妻が不平を言い始めた。

先頭を私が歩き、道を作っていく。その後を越前、次に妻、そして4番手を孟徳と玄徳が抜きつ抜かれつしながら登った。越前は、雪の中をイルカのように飛び跳ねながら着いてくる。 それに比べて孟徳と玄徳は、ズブズブと雪に埋まりながら進んだ。   (まるで鮫だな・・・)

「もう、いいじゃん。帰ろうよ。」
山の中腹に差し掛かった頃、妻は苛立ちを隠さず抗議の声をあげた。

「いや、登る!!先に帰っててもいいぞ。」
と強がってみたものの、3歩進むごとにひっくり返ってゼエゼエ言う。それでも登った。


実はこの時、2ヵ月後に転職を控えていた。10月の旅行から帰った私は、転職先を決め、会社に辞表を出した。12月末で辞めるつもりが、後任の人事調整がつかないということで3月末まで働かねばならなかった。興味がなくなってしまった会社や仕事に、我慢しながら通う半年はさすがに辛かった。

(あの山頂に登って、神々に祈ろう。新たな人生の成功祈願と、疲れた心の厄落としをするんだ)
と思っていたのだ。

「もう目の前だ!30分あれば着くぞ!!」
いよいよ山頂に近づいた頃、振り返ると越前が、疲れも見せず目をキラキラさせていた。
(父上、いよいよでござりまするな!)
(おうよ!いざ行かん!)

ところが・・・、
「ねえ。孟徳の足から血が出てる!」
孟徳が、キューキュー鳴いていた。雪の上に点々と血が着いている。

「・・・・・・・・・。よしっ!者供、引き返すぞ!」
「えっ?」
「帰ろう!!」

 

「後悔していない?」
ある時、妻がその時のことを思い出して聞いてきた。

「ぜんっぜん」
「あんなに登りたがっていたのに?どうして?」

妻は、あまりの変わり身の早さが理解できず、私の人格にまで疑問を抱いたらしい。

「う〜ん。犬に教わった技かな・・・。」
「はあ?」
「以前さ、あなたがペットロスの講座から帰ってきて・・・」


以前、妻がペットロスの講座なるものから帰ってきた時のことである。

「今日、講師の先生が言ってたんだけど、人間がペットロスで苦しむのは当たり前なんだって。当然の報いだって言うのよ。」
「どういうこと?」
「天罰なんだって。」

ペットを亡くした時、飼い主は他人には理解できないほどの精神的ダメージを受ける。それは、神が飼い主に下した天罰なのだと言うのである。

『ペット達は、生後数ヶ月で母親から引き離される。心理学的に言えば、最も母親の愛情を必要とする大事な時期に。そんな酷いことをしておいて、ただで済む訳がない。ペット達が受けるダメージは、飼い主のペットロス症候群どころではないのだ。』

と言うのだ。

その通りかもしれない。最初に飼ったプルート1世が、母犬と妹犬から引き離される時、目の前で放った悲痛な鳴き声を思い出した。今の越前をブリーダーさんの所に迎えに行った時、ぷるぷる震えながら悲しそうに家族を振り返る姿を思い出した。私たち夫婦は、自分の目でその姿を見たのだ。自らの手で、家族から引き裂いたのだ。

「あの一言は効いたな・・・。考えさせられたよ。」

そんな酷い目に遭っていながら、こいつらは私たちのことを信じて疑わない。いつも後をついて回り、隙あらば体を寄せ、少しでも近く、少しでも長く一緒に居ようとする。

(一分でもいいです。一秒でもいいです。楽しい時間が長くなりますように)

と。  何故、そんなことができるのか?

「・・・で、犬に学ぼうと思ったわけよ。」

私たちは、やはり幸せでありたい。でも、周りには面白くないことも山ほどある。それに囚われてしまうと、人生は不平と不満で終わってしまいそうだ。

「大きな幸せを得るためには、小さな幸せを感じ取れる感性を身につけなければならない。そのためには訓練をしなければならないし、工夫をしなければならない。 ・・・って本に書いてあったんだよね。  あの時、この言葉の意味がわかったような気がした。」

「ふうん。」

「だから、こいつらを観察することにしたわけよ。『幸せ』と『楽しい』の達人だから。で、一つわかったのが、気持ちの切り換えの早さ。 『嫌なことは、3歩歩いて忘れよう』の精神。  名付けて、『ホップ、ステップ、何だっけ〜?』。」

「・・・・・・・・・」


犬から学ぶ技は、まだまだありそうである。


第二十五話 完 


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