第三十一話 絶対絶命
日々の暮らしの中で、「ピンチだ〜」とか「もう駄目だ〜」とかよく思ったり口に出したりする。でもよくよく考えると、今まで生きてきて本当のピンチだとか本当に駄目だったことがどれだけあっただろうか。なんのかんのと言いながら、なんとかかんとかやってきた。だから慌てることなんて何一つ無い・・・・のか?
いつものように、その日も妻は犬の手作りご飯を作っていた。メニューは、角切りした豚肉に生野菜数種類。妻曰く、犬にとって肉と穀類の組み合わせは消化に悪い。人間より腸が短い犬は、肉用と穀類用の消化酵素を同時に分泌しにくいと言うのだ。
「だから、お肉はたっぷり食べさせてあげないと。」
妻は2kg近くの豚の塊をまな板の上に乗せた。ハナマサでキロ69円で買ってきた肉だ。フレブル三匹の腹を満たすためには、ハナマサはなくてはならない店なのだ。1〜2週間に一度、私が買い物に行く。牛の塊、豚の塊、挽肉の塊、そしてトイレットペーパーの塊を一度に買って帰るのは、女の力では無理だ。だから私は、これを買い物だとは思っていない。肉を求めて、巣を出る。 これは狩なのだ。
ぶひっ、ぶひっ!
肉の臭いを嗅ぎつけると、孟徳と玄徳が妻の足元に歩み寄りでんと座り込む。
目的は三つ。 いったい何を作っているのか知ること、 それは自分達の食い物かどうか確認すること、 そしてまな板からこぼれ落ちた食材を奪い取って喰うこと。 だからこの時間、台所はぴりぴりとした緊張感に包まれる。妻は手に持つ包丁に注意を払いながら、足元の犬達の動きに気をつけている。孟徳と玄徳は、落ちてきた食い物を相手に奪われないようお互い牽制しながら、妻に踏んづけられないようにしなければならない。
この時、越前はというと、
フンッ!
(あいつら馬鹿じゃないの)
と言わんばかりに、居間のクッションの上で丸くなりため息をつく。越前は、クールな男・・・ではない。醒めた素振りを見せてはいるが、後ろにまわって観察すると、
プルプルプルプルッ!
後ろ足が細かく震えている。おやつが出れば、いつでも飛び出せるよう待ち構えているのだ。こういう時に後から、
「じゃがいも〜っ!!」
越前の好きな言葉を、大声で叫んでみよう。すると越前は、
ビックーンッ!ダダダダーッ!!
弾かれたように飛び起き、台所の妻に飛び掛る。
「きゃ〜っ、何すんのよ〜っ!もう少しで包丁で切るところだったじゃないっ!!」
となってしまうので、とても危ない。
ご飯を作る間に、これだけ緊張感が高まってしまうので、いざ食事となるとその勢いは凄まじい。特に玄徳は、孟徳の分まで横取りするために、なんでもかんでも丸呑みしてしまうのである。
そしてこの日の食事中、
「げんとく〜っ!」
妻の絶叫に、驚いて玄徳を見ると、
グヒ〜ッ、グヒ〜ッ・・・
背中を丸めて苦しんでいる。
「何?」
「たぶん豚肉っ!喉に詰まったみたい!」
「玄徳、飲み込めっ!」
しかし玄徳は背中を丸めたままだ。白目の部分が真っ赤に充血し、上下の目蓋も赤く腫れ上がりだした。
ヨロヨロヨロ
あまりにも苦しいのだろう。2、3歩前に進み、
バターンッ
横倒しに倒れた。
バタバタバタッ!
倒れた足が宙を掻く。
「このままじゃ、やばいっ!」
急いで人口呼吸をしようとした。肋骨の上に手を当て、「いち、に、さん、いち、に、さん」のリズムで押していく。しかし、状況は変わらない。
「体を抑えていろ!」
妻に手伝わせ、玄徳の口を広げた。そこに自分の口を突っ込み、息を吹き込む。それでも駄目だった。
ヨタヨタヨタ
身の置き所がない玄徳は、再び立ち上がり部屋の隅に向かって歩き出した。
「足を握ってて!」
玄徳を引き摺り戻し、口の中に指を突っ込んだ。暴れるのも構わず指を奥へ奥へと突っ込んだが、どうしてもそれらしいものに届かない。もう時間が無い。
「毛布を床に敷いてっ!」
「何するの?」
「いいからっ!」
玄徳の後ろ足を?み、逆さ吊りにした。そして、
ガーンッ、ガーンッ、ガーンッ、ガーンッ、ガーンッ!
杭を打ち込むように、玄徳の頭を毛布の上に叩き付けた。
「もうやめてーっ!玄徳が死んじゃう!!」
しばらく呆気にとられて立ち竦んでいた妻が叫んだ。
手を離すと、玄徳は立ち上がったが息はつかえたままだ。ゲーゲー言いながら部屋の隅へ行く。
(もう駄目か・・・)
背筋が冷たくなり、体から力が抜けていく。このまま死んでいくのを見守ることしかできないのか・・・。
「掃除機だっ、電源を入れてっ!」
テレビで、老人の喉につかえた餅を掃除機で吸い取ったという話しを思い出したのだ。掃除機を引っ張り出し、コードを妻に渡す。掃除機の柄をとりはずし、スイッチに指をかけ・・・止まった。
(「強」で大丈夫か?)
我が家の掃除機は強力だ。肺を、あるいは内臓を痛めてしまうのでは・・・。
(よし!「中」からだ。それで駄目だったら「強」にしよう。)
覚悟を決めて「中」のスイッチを押した。
ウィーンッ!!!
唸りをあげる掃除機を引き摺って玄徳に近寄ると・・・、
プルプルプルッ!
玄徳は壁に向かってうな垂れ、震えていた。そして頭だけ振り返り、恐怖に満ちた目で私を仰ぎ見たのだ。
「おまえ・・・」
「よかった〜っ。飲み込んだみたい。大丈夫、玄徳?」
妻の呼びかけに、玄徳は一目散で妻の足元に逃げ込んだ。そして、恨めしそうに私を見上げたのだ。
「これじゃあ、まるで俺が虐待していたみたいじゃないかよ。」
「知らない人が見てたら、虐待にしか見えなかっただろうね。私も一瞬、そう見えたもの。」
こうしてみると、人生どうにかこうにかやってはいるが、慌てる事ばっかりだ。あ〜、やれやれ。
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